受験勉強の話

2024年11月 2日 (土)

1回目の司法書士試験が終わった後

Pxl_20241014_045143193-1平成8年7月、1回目の司法書士試験の受験を終えた後で、20日間の中国の旅。

就職浪人をして「あと1年」、受験勉強を続ける私に、親は何も言いませんでした。何を言っても聞かない子、ということは、もう伝わっています。やりたいように、させてくれました。

平成9年7月の試験にピークを持っていくには、早く仕上げてしまっても続かない。年明けから、早稲田セミナーと日本司法学院の答練を受けることを決め、平成8年中は、わりとのんびりとしていました。

基礎講座に合わせて始めた「なんば」での居酒屋のバイトには、引き続き通っていました。勉強に集中するために、環境は変えないほうがいい。

12月は、28日勤務という無茶なことをしています。お金が必要だったわけではなく、ただ、仕事するのが楽しかっただけ。

3日しかない休みのうち1日は、祖父が亡くなった日で、祖父が自宅マンションに戻った横で(病院から葬儀会場に直接移動するのではなく、一度家に連れて帰っていたのが、今とは違う話)、孫たちで肉じゃが作ったことが、記憶に残っています。

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2024年10月26日 (土)

1回目の司法書士試験の後は中国への旅に

Pxl_20241014_045117628 平成8年7月7日に、1回目の司法書士試験が終わった後、7月12日から31日まで。19泊20日で、中国への旅行に出ています。

行きと帰りの飛行機のチケットと、20万円程度は持っていたという記憶があるものの、日本を出た時点で中国のホテルは取っていません。

北京で留学中の友達と合流。バックパックを背負って、成都、重慶、武漢と回っています。移動手段は、寝台列車、飛行機(中国の国内船)、山峡下りの船。宿泊先の確保は全部、フロントで「今日空いていますか?」でした。

今と違って、携帯電話を含む通信機器がありません。3段式の寝台列車では、こんなとこで寝れるわけがないと思いましたが、意外と快適。三峡下りの観光船も中国人と一緒で、最初に乗り込んだ安い船はあまりにひどい環境で、出発前に逃げ出しました。

今からすると、よく行ったものだと思いますが、恐さを知らないのは、若さの特権。冒険好き、拘束されたくない、というのは、今と同じです。

旅行の工程表を書いている手帳のページに、「受験番号最後の50人は3列。その他4列」とメモしていました。司法書士試験の会場、受験番号が若い教室は、何とも言えない重たい雰囲気。最後のほうは、受かるつもりで来ている人は少ない。

翌年の司法書士試験では、わざと願書の提出期限ぎりぎりに出すことを決め、平成9年。大阪の合格者の中では、一番最後の受験番号で合格しています。

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2024年10月19日 (土)

司法書士試験1年目の結果

Pxl_20241014_045143193「司法書士としての終わり」も意識しつつ、「司法書士を志した時期」のことを思い返しているのは、きっと「今が中間地点にいる」ということなのだろう、と思っています。

開業23年目で、51歳。あと23年経てば、私は74歳になっている計算。

いろいろありながらも、振り返ってみると、短かった。だから、残りの司法書士人生。大事に生きていかなければ、と。

司法書士試験の受験勉強を始めたのは、平成7年4月。
1回目の受験は平成8年7月になりますが、平成8年の本試験は、午前28問/35問、午後22問/35問で不合格でした。

基礎講座が終わったのが平成8年3月末。本試験まで3か月ちょっとしかない時期から、全部の科目を回すのは物理的に厳しいとして、全然ダメな結果ではなかった。「もう一年だけ」と決めて、勉強を続けることになります。

当時の手帳を探しました。基礎講座を受講していた時間は、平日の18時半から21時20分まで。帰宅すると22時なので、若かったからできた話。

でも、今から考えると、仕事してなかったんだから(平成7年度のバイト収入は74万円)、もうちょっとできたんじゃないか、と思ったりもします。

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2024年10月14日 (月)

「司法書士試験の受験生になる」と決めた私の話

Pxl_20241014_093020782 「司法書士試験の受験生になる」と決めた私に、親からは「学費は出す。そのかわり、自分の小遣いは自分で稼ぐように」と言われました。

当時、自宅から一番近かった「なんば」のLECに通うことを決めたと同時に、なんばで居酒屋の仕込みのバイトを始めました。14時から17時まで。なんばでバイトすることにしたのは、通学のための交通費ももらおう、という計算。

料理の技術も身に着いたので、今の家に引っ越してからは、「朝食の準備」は、私の役割です。

働くことは、当時から好きでした。大学2年の夏休みには、3か所掛け持ちでバイトして40万円稼いだり。父親に「よく働くな」と言われた時は、やった!と思ったものです。

LECは、最初は週2回の授業。週3回だった時期が一時あって、バイトを終えてから教室に通う。授業のない日は帰って勉強する生活が始まりました。「3時間の授業に対して、6時間の復習が必要」「1回休むと、取り戻すのに3か月かかる」とも言われました。当然ですが、基礎講座は一度も休むことなく、通っています。

『資格で人生の選択肢を増やせ』の竹下先生とは、LECの申し込みをした後に、出会いました。順番が逆だったら、間違いなく早稲田セミナーでした。

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2024年10月13日 (日)

梅田スカイビルにあったLECの大阪本部

Pxl_20241013_020430838青空の下にある、梅田のスカイビル。スカイビルには、昔は、LECの大阪本部があって、司法書士の受験勉強を始める時、講座の説明を聞きに来ています。平成7年のことです。

スカイビルに通じる地下道が暗かったことと、対応してくれたお姉さんの感じがよかったこと以外、記憶はありません。

大学4年生になる頃、このまま何の興味もない会社に就職するのかと、取り寄せたパンフレットを見ていた時、どういう流れか、「司法書士を目指したい」と言い始めた私。大学3年生の時に受けた、行政書士試験の合格発表があったばかり、の時期でした。

LECの「15か月合格講座」を受けたいと言った私に、本当かどうか、母は「ちょうど満期になる定期があるわ」と言ってくれました。大学の学費と二重の負担になる、という想定外の事態なのに、母親はいつも私の理解者でした。

父親とは、しばらく口を利かなかった記憶があります。「いい大学に入って、いい会社に入れ」という父親の理想に、ことごとく背こうとしているのですから、当然です。

そのくせ、司法書士試験に合格した時は、「息子が合格した」と会社に言いふらし、勤めていた会社の登記の仕事を取ってきてしまう、という、親バカぶりを発揮しています。

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2024年9月19日 (木)

「心して狭き門から入れ」の意味

Pxl_20240919_055306559mp病院の駐車場にある階段。片側は広くて、片側だけ狭くなっています。

その瞬間、「心して狭き門から入れ」という言葉が、頭に浮かびました。

誰かが言っていたのか、どこかに書かれていたのか。言ってたとしたら、中学生時代の先生のような気がします。

よく成功者の方が言われる、「迷ったら、困難な道を選べ」という言葉は嫌いです。私であれば、そんなことはしないです。後から振り返ったら、そうだった、ということはあるかもしれませんが、ただ、そっちに進みたかっただけ。

だから、「心して狭き門から入れ」も、「狭い門をくぐるからには、それだけの覚悟を背負いなさい」だと受け止めています。

そもそも、司法書士試験をくぐり抜けた時は「狭き門」でした。

私自身、司法書士の門をくぐった時は、覚悟も自覚も足りなくて、狭い道をくぐっただけで安心したもの。成功者になれたと錯覚したものですが、狭い道だと思ったのが、入ってみると実は広くて、今は、広いからこそ難しい世界、だと思ってやっています。

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2024年2月22日 (木)

司法書士試験に合格した時の六法

Camerazoom20190220185147814「司法書士試験って、難しいんでしょ?」と話を振られると、どう答えたらいいのか分かりません。

きっと「そうですね」が、模範解答なのでしょう。

試験に合格してから5年弱、勤務時代がありました。「司法書士試験に合格した自分」が凄いと思っていたのは、むしろ、勤務時代だった気がします。

余談ができる環境ならば、今は「試験に合格した後のほうが大変です」と答えます。それが本音です。

同じ試験に合格した人たちなのに、同じ人生を歩むことはありません。試験に合格した後の過ごし方、生き方、考え方次第で、大きな違いを作るからです。

でも、試験に合格した当時に使っていた六法は、大事に取ってあります。

記念、思い出。自分がやりたいことを、やりたいように勉強していた証です。

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2023年7月19日 (水)

予備校の先生が講師になる研修会【試験と実務】

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大阪司法書士会の研修。『民法・不動産登記法の最近の改正点』は、いい機会だと楽しみにしていました。

講師が、受験予備校の先生ということで、話が上手。手元を見られず、動きながら話される、というのは、話慣れていないとできないことです。

ただ、「遺産分割の禁止」「二重資格者の相続放棄」みたいに、こういうのは仕事ではないよな~という話には、冷めてしまう部分もあります。

私自身が司法書士を目指して基礎講座に通っていた時の先生は、司法書士として実際に仕事をされていました。

講義の中で、たまに散りばめられる実務の話が、励みになり、面白かった記憶があります。ただ、99%は受験用の話。そのあたりの線引きは明確で、試験に合格するための講座で、試験に合格するために勉強していました。それが最短距離。

司法書士試験は、士業の試験の中では、最も実務に近い試験、だと思っていますが、受験予備校の先生の話を聞いていると、やっぱり違う部分、受験用の話、というのがある気がします。

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2023年7月 8日 (土)

「全国で3位に入るんだ」という気持ち【司法書士試験】

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司法書士試験の受験生にお貸ししていた暗記帳が返ってきました。

自分が作ってたものを見て、我ながらマメだよな~と思うと共に、司法書士の実際の仕事にはほとんど役に立たんな、というのも感じます。

当時は、ただ「司法書士試験に合格するため」に勉強していました。漠然と、将来は自分の事務所を持てたらいいな、というのはありました。でも、人を雇用したい、という気持ちはなかった。

「司法書士試験に合格するため」に勉強していた中でも、予備校の公開模試では、成績優秀者の順位と名前が出ます。

記憶の限りで、マニアックな問題で有名だった日本司法学院の公開模試の上位3位は、特別な枠で掲載されていたので、絶対そこに名前を載せてやる、という気持ちでやっていました。

結局「上位3位」には及びませんでしたが、「試験に合格するんだ」と思ってやるのと、「全国で3位に入るんだ」と思ってやるのとで、やること、当たり前のレベルは違ってきます。

どうせやるなら、「受かりたい」ではなく、「トップで受かる」くらいの気持ちでやろう。仕事でも同じです。

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2023年7月 2日 (日)

2回目の司法書士試験を終えた後

20230702_192640835平成9年7月。2回目の司法書士試験の受験を終えた私は、司法書士事務所への就職活動に入りました。

2回目で合格できなかったら、「司法書士事務所で仕事をしながら勉強を続ける」と決めていたためです。

細かい経緯は記憶にありませんが、何か所か履歴書で落ちた後、唯一、面接してもらえた事務所で、9月1日から勤務を開始。基本給、額面で16万円からのスタートでした。

勤務が始まるまでの間、早稲田セミナーの『独立開業実践講座』という、実務の知識を教えてもらう講座を受けています。これは、自分で言うことではないですが、偉かった。ガイダンステープが、家に残ってました。

事務所は学校じゃない。仕事を教えてもらう場所じゃない。もちろん、教えてもらわないと、最初は何もできないわけですが、「勤務を開始するための準備」は、誰に言われるわけでもなく、はじめていました。

あと『司法書士 法務アシスト読本』。
今からしても、これは必読の書ですが、勤務を開始するまでに、ちゃんと読んでいました。それくらいの準備はしておくものです。そんなこと言ってたら、いつの間にか時代は変わり、合格者や経験者の求人が難しい時代になりました。

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